事務所紹介

横浜法律事務所

横浜法律事務所は、1963年6月15日、神奈川県内での働く人の事件を扱う事務所として、東京、神奈川から3名の創設者である弁護士が集まり、産声をあげました。現在の横浜市中区、関内の地に事務所を構えたのは、1979年11月のことです。

現在、14名の弁護士が所属しています。

働く人の事件、消費者事件、債務整理、医療過誤、外国人の問題、高齢者の生活をめぐる問題、障害のある人の生活をめぐる問題、刑事事件、少年事件など、一般民事の他、取り扱う分野も多岐にわたっています。

私たちは、昔も今も、真摯に事件に向き合い、歩んでいます。

横浜法律事務所のあゆみ

【1960年代~80年代】

横浜法律事務所は、1963年6月15日、故横山國男弁護士、故陶山圭之輔弁護士、故三野研太郎弁護士の3名によって、横浜市中区福富町で産声を上げました。神奈川の地で、労働者、労働組合の力になる事務所を作りたいとの思いと、当時盛んだった労働組合運動を反映して、設立当初の事務所には、県内の労働組合から様々な事件が持ち込まれました。

1960年代は、労働組合活動に対する刑事弾圧、組合役員に対する解雇など、労働組合事件が数多く発生し、所員はこれらの事件に取り組んできました。

1970年代に入ると、違法・不当な処分を行った自治体への住民の取り組みも広がり始めました。事務所の所員も、行政訴訟などを通じてこれらの分野にも取り組みました。70年代の後半には、医療過誤の被害に遭った患者の方々が泣き寝入りせずに医師の責任を問う医療過誤訴訟が提起されるようになり、所員はこれらの事件にも積極的に取り組みました。

1980年代に入ると、一般市民を狙った先物取引被害等の消費者被害が増加し、当事務所の所員もこれらの訴訟に取り組みましたが、訴訟にとどまらず、弁護士による神奈川証券取引研究会の発足にも中心として関わりました。また、横山國男弁護士が横浜弁護士会の会長を務めました。

80年代の後半には、フィリピン、パキスタンなどから日本に入国して働いている外国人の人権問題が増加し、当事務所はこれらの問題にも積極的に関わりました。


【1990年代】

1990年代といえば、バブル崩壊とともに始まり、その後の長い長い不況の時代ともいえます。具体的には、終身雇用制の下で働いていたはずの多くの労働者が「リストラ」という会社の都合でいとも簡単に解雇されるようになってしまい、新たな個別的労働問題が深刻となりました。バブル時に不足した労働力を補うために来日し、家族を呼び寄せるなどしてようやく日本に定着しようとしていた外国人達も切り捨てられました。経済面でも、右肩上がりの経済成長が終わり長いゼロ金利の下で、規制緩和が断行され、事前規制が届かなくなる中で、弱者保護は切り捨てられ、消費者は危険な投資商品を、リスクを知らずに買わされるなどの被害が続発したのです。これらにとどまらず、社会構造の変容が社会的弱者である個人に及ぼした影響は枚挙にいとまがありません。市民や労働者という社会の基本となる「人間」の視点で、時代時代の要請に応えることが、私たち横浜法律事務所の弁護士の使命でもあると考え、日本社会の激変期である90年代に、労働分野や外国人、消費者問題、そのほか時代の抱える新たな問題に取り組んできました。


【2000年代】

ミレニアムの祝賀ムードで始まった00年代でしたが、01年の9.11同時多発テロを契機として、集団的自衛権の名の下に、アフガニスタン戦争やイラク戦争が勃発しました。我が国も、海上自衛隊の艦船をインド洋に派遣したり、イラクに自衛隊を派遣する等、戦争の放棄を謳う憲法とは逆に戦争への協力の途を開こうとしました。私たちは、法律家団体で集会を開く等して、憲法の理念どおり平和を希求してきました。

また、00年代には、規制緩和と称して、労働者派遣が原則自由化される等した結果、格差・貧困問題が社会問題化しました。その最たるものが、リーマンショック後の多くの非正規労働者に対する解雇・雇止めです。他方、労働審判制度ができ、90年代に急増した個別的労働紛争を、迅速・柔軟に解決する途が開け、私たちも多くの事件に取り組んでいます。

さらに、高齢者や障がいのある当事者の方の権利の確立や擁護、また社会参加の支援について取り組んでいます。00年代に入ると、介護保険度や成年後見制度の開始など、社会の制度も大きく転換してきています。こうしたなかでも、ご本人たちの近くに在って、真に権利の擁護に資するために何が必要かを考えながら、私たちに出来ることを一歩一歩取り組み続けています。

そして、刑事弁護の分野では、被疑者国選弁護人制度や、裁判員制度が始まり、私たちも弁護人として活動しています。

2000年代には、小島・三木・芳野が横浜弁護士会副会長を務め、小島が日本労働弁護団幹事長、杉本が青年法律家協会事務局長や自由法曹団事務局長を務める等、現所員が法律家団体における重要な役割を担うようになった時期でもありました。


【2010年代】

現在、当事務所の設立当時の目的である働く人のための事務所として、全所員が、時には複数体制で労働事件に精力的に取り組んでいます。労働事件だけではなく、消費者被害、外国籍に関する問題、障がい者に関する問題、高齢者に関する問題、医療過誤事件、少年事件、刑事事件など、各所員がそれぞれの分野で第一線で活躍しています。

2011年に起きた東日本大震災、それに伴う原発事故は、戦後日本社会の構造を改めて問い直す契機となりました。この年は、小島周一弁護士が横浜弁護士会会長を務め、震災、原発対策に奔走した年でもあり、所員も原発問題に取り組んでいます。

事務所では、毎週一度開催される事務所会議を開催し、各分野でどのような動きがあるか報告され全所員で情報共有が図られると共に、所員が担当する事件を全所員で検討する機会が設けられるなど、日々、弁護士力を高めるために各所員が切磋琢磨しています。

初心を忘れずに、同時に、各所員が、一人ひとりの依頼者の悩みに寄り添って、共に頑張って参りますので、今後とも、横浜法律事務所をよろしくお願いいたします。

横浜法律事務所と坂本堤弁護士

私たち横浜法律事務所を語るとき、坂本堤弁護士と坂本弁護士一家事件を語らないわけにはいきません。

坂本弁護士一家事件とは、オウム真理教の違法行為を追及していた坂本堤弁護士(当時33歳)とその妻都子さん(当時31歳)、長男龍彦ちゃん(当時1歳)が、1989年(平成元年)11月3日の深夜、横浜市内の自宅で、教祖松本智津夫の指示を受けた教団幹部ら6名に殺害された事件です。

事件発生当初は誰もが一家は拉致されたと考え、全国的な救出活動が繰り広げられました。しかし残念ながら、1995年(平成7年)9月6日と10日一家3人は、新潟県、富山県、長野県で、それぞれ変わり果てた姿で発見されたのです。

坂本堤弁護士は、1987年4月に当事務所に入所しました。学生時代、障害者の方々を支援するボランティア活動に携わっていた坂本弁護士は、障害者、子どもなど、社会的に弱い立場にある人々の役に立つ人生を送りたいと考えて弁護士を志したのです。奥さんの都子さんとも、そのボランティア活動の中で知り合ったのです。

坂本弁護士は、入所するなり、少年事件、労働事件、医療過誤事件などに精力的に携わり、横浜弁護士会に子どもの人権相談窓口を開設するときにも中心メンバーの一人として活躍しました。また、国鉄分割民営化直前に、当時の国労横浜支部の組合員が助役に暴行を振るったとして逮捕・起訴された刑事事件では、弁護団の一員として、後の全員無罪の決定的な証拠を発見するなどしました。

1989年春、坂本弁護士は、娘がオウム真理教に入信し、家出をしてしまった母親から相談を受けました。入信し、出家をした子どもは、学校にも通わせてもらわず、ひたすらオウム真理教の教義だけを正しいと教え込まれていました。

我が子を心配し、教団から取り戻すことを焦る親に対しては、坂本弁護士は、「子どもにも信教の自由はある」と説きながらも、「たくさんの価値観や考え方に触れて、自分なりに考え、悩んで価値観を作っていかなければならない大切な思春期に、学校へも行かせず、ひたすら教祖の教えだけを正しいとして押し付けるオウム真理教のやり方は絶対におかしい」と、オウム真理教の持つ問題点を追及していきました。

そればかりではなく、調査を進めるうちに、信者達が「布施・奉仕」の名目で教団の金集めの道具にされている実態や、教団の「教祖の血には特別な効能がある」などという宣伝が虚偽であること、同様の被害に遭っている子ども、親がたくさんいることが判明していきました。

坂本弁護士は、同じ悩みを持っている親にアドバイスし、その結果「オウム真理教被害者の会」が結成されました。坂本弁護士も数名の弁護士に呼びかけて弁護団を結成し、オウム真理教のまやかしを鋭く追及していきました。

「教祖」の松本智津夫は、そのような坂本弁護士を恐れ、幹部ら6名に坂本弁護士一家の殺害を命じたのです。

私たち横浜法律事務所の同僚たちが坂本弁護士一家が行方不明になっていることを知ったのは1989年(平成元年)11月7日でした。その日から、坂本弁護士一家の救出活動が始まったのです。

全国の弁護士は、「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」を作り、全国3257名の弁護士が参加しました。坂本弁護士を知る市民の方々も「坂本弁護士と家族をさがす会」を結成し、救出活動を行いました。横浜弁護士会をはじめとする各地の弁護士会、そして日本弁護士連合会も、坂本弁護士の救出対策本部を設置して救出活動に当たりました。

これらの活動は、捜査の強化を求める署名174万9795人、捜査体制の充実を求める各地方議会の請願・陳情が836議会などに結実しました。そのほかにも、ビラ、ポスター、パンフレット「真相」、リーフレット「市民の暮らしと弁護士」の発行や、書籍(「仔山羊の歌もう一度」「横浜弁護士一家拉致事件」)の出版、全国で300回を超える救出集会の開催、ステッカー、テレフォンカード、電車中吊り広告、新聞広告、全国キャラバンなど、およそ考えつく有りとあらゆる救出活動を行いました。そして、わたしたち横浜法律事務所の、当時の同僚達も、それらの活動に全力で参加しました。

しかし、1995年3月にオウム真理教は、犯罪史上、未曾有のテロ事件である地下鉄サリン事件を起こし、多数の死傷者を出したのです。

その後の大捜索の中で、元幹部の自供により、坂本弁護士一家は9月、変わり果てた姿で発見されたのです。

坂本一家が発見されたそれぞれの現場には、日弁連、地元弁護士会、そして救う会による慰霊碑が建てられ、その碑文には、弁護士に対する最悪の業務妨害事件である坂本弁護士一家事件を忘れず、弁護士、弁護士会は、反社会的勢力などによる、弁護士活動に対する妨害に決して屈することなく、今後とも弁護士の使命である基本的人権の擁護と社会正義の実現を追及する旨の決意が刻まれています。

坂本弁護士一家は、現在、鎌倉円覚寺に眠っています。

私たちは、毎年坂本弁護士のお墓に参るとともに、慰霊碑のある3つの現地を巡っています。そしてその都度、坂本弁護士の志に思いを寄せ、何時か彼に会っても恥ずかしくない仕事をしたいと心を新たにするのです。