「当たり前」を奪われた日々の中で
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する(二二条)」
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する(二一条)」
「学問の自由は、これを保障する(二三条)」
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する(二六条)」
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(二五条)」
もし去年の夏号で、これらの憲法の条文を紹介しても、「何を当たり前のことを」という反応で終わっていたかもしれません。
しかし、今年に入ってからの新型コロナウイルス感染拡大は、普通に仕事を続ける、普通に人と会う、普通に人々が集まる、普通に行きたいところに行く、普通に学校に通う、という「普通のこと」が、いかに危ういものなのかということを、そしてそれらがいかに大切なのかということを、私たちに知らしめました。
この社会を守るために、感染拡大を阻止することが重要であることは言うまでもありません。医療崩壊に至らずにかろうじて踏みとどまれているのは、三密を避けるための私たちの必死の取り組みがされてきたからこそです。しかしそれは、「感染拡大を防ぐためなら何をしても良い」ということを意味しません。感染拡大阻止という大切な「公共の福祉」と、憲法が私たちに保障する基本的人権とのバランスをどのように取っていくのか。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」
憲法一二条のこの問いかけに、今、私たち一人一人が真剣に向き合うことが求められています。