コラム

木枯らしのダイアリー

弁護士 杉本  朗

 あけましておめでとうございます。
一年の計ということで、今年こそ日記を書くぞ、と決意されている方もいらっしゃると思います。
自慢ではありませんが、私は日記を書いたことがありません。書こうとしたことは何度かあるのですが、三日もたたずに挫折しました。例外は、中学2年のときに、英語の担任が学校の教頭先生で(今から思うと教頭先生が授業をもっていたというのは組合の強い学校だったのかなと思いますが)英語力をつけたかったら夏休みの間英語で日記をつけろ、毎週学校に来ているから見てやる、と言われて、毎日英語で日記を書いては、週末学校へ持っていって添削を受けたことがあるだけです。
単なる私人の私が日記をつけないことによるデメリットは、せいぜい人間として向上することがない程度ですが、これが公の存在になると話は違ってきます。公人や公機関がきちんと記録を残すことによって、検証が可能になりますし、あるいは文化の継承ということもあります(昔の木簡や、下貼り文書などそれによって当時の文化などが分かります)。アメリカの大統領が退任するとメモワールを出版するのも、お金を稼ぐという意味もあるのでしょうが、在任中の出来事や意見を(たとえ粉飾があったとしても)後世に残すという意味があるのだと思います。
そうした点で、公機関がいろんな公文書をあっさり廃棄してしまう、というのは自ら責任追及されるのを逃れるだけでなく、大きな意味で日本の文化の破壊だと思っています。近年、行政機関による公文書の廃棄が問題になっていますが、ある時代にどのような政治が行われていたかは100年200年のちには、重要な資料になると思うのです。日本文化の破壊を許さないためにも、きちんと公文書の保管がなされるよう私たちは見守っていかなければならないと思います。